又吉直樹『火花』

愛すべき凡庸がある。

凡庸な人間が凡庸な人間を尊敬することで生まれる愛すべき日々がある。

『火花』に登場する神谷さんは何ら特別な存在ではない。

その頃、神谷さんが嵌っていたのが、パンツを脱ぎ、「若手の、若手の、若手の登竜門!」と言いながら、でんぐり返しで、僕に肛門を見せつけることだった。神谷さんの借金はどんどん膨らんでいった。僕は高円寺のコンビニで深夜バイトを続けていたので、そんな神谷さんを見て、我ながら小粒だなと自分が嫌になることもあった。

 「僕」が自身を小粒であると感じているのは、生活費も稼ぎだすことができないにも関わらず、自分と違って神谷さんがずっと凡庸な行動を取り続けていることに対してである。実際、神谷さんのような言動をとりそうな若者は難波駅界隈を歩けばいくらでもいる。自分は他人よりも面白いと勘違いしている若者である。お笑い芸人としての才能もなければ、アウトローな人間としての才能も無い。「僕」は内心そのことに勘付きながらも、神谷さんを特別な才能として尊敬しようとする。そのことが「僕」の拠り所なのだ。

しかしある時、主人公の内面ではっきりとした矛盾が生じる。

神谷さんがテレビに出た「僕」の漫才を否定した時に、残酷な事実を言ってしまうのである。

「おもろないってことではないねん。俺、徳永が面白いん知ってるから。徳永やったら、もっと出来ると思ってしまうねん」

(略)

「ごちゃごちゃ文句言うんやったら、自分が、オーディション受かってテレビで面白い漫才やったら、よろしいやん」

僕が言いたかったのは、こんなしょうもないことだったろうか。

「せやな」

神谷さんは顔を上げずに言った。

 趣味ではないのだから、漫才は定められた時間で、客やTV局の求めるものを提示しなくてはならない。

これは芸術全般によく言われることである。

特に小説は戦前より純文学と大衆小説の区分をめぐって(多くは不毛な)論争まで巻き起こしてきた。

たとえ自分だけが文学性を感じていても、正確に受け取る人間がいないかぎり完全に無意味である。

漫才に置き換えてみればここまで簡単な話はない。笑えなければ無意味だが、笑いをとれたとしても、求められている笑いでなければより無意味なのである。

 神谷さんの発言は、結局のところそんな簡単な事を認識していないと言っているのと同じで、いきなり凡庸な人間としての一面を露呈させてしまう。

 しかしよく考えればそんなことを言うから神谷さんを尊敬していたのではなかったか。「しょうもないこと」を言いながら、すなわち内面において矛盾しながら、「僕」は現実を直視する生き方を選びとる。

この後、この小説最大の盛り上がりどころである漫才シーンを挟んで、「僕」は神谷さんと対峙する。少し会っていなかった間に、神谷さんは驚くべき愚行に走っていた……。

急速に物語は萎んでいくが、だからこそ読んでいて私は深くリアリティを感じざるを得なかった。

一見破天荒に見える凡庸な人間の凡庸な愚行を、やはり凡庸な「僕」が受け入れた時、彼らの青春ははっきりと終わる。

誰もが自分を特別な存在だと思う。おそらくその時が青春なのだ。

 しかしそうではないと気づいた時、人間は成長したということになろう。

ウェルメイドな青春・成長物語。

あまりに構成が整いすぎているので少しそこに難があるが、良い小説だった。